kuraruk.blog

見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

すずめちゃん

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カルテット、無事に追いつきました記念。

もう何も恐くない by.mami tomoe

 

 

それにしても、この数年、気休めに、ボールペン一発書き始めてるんだけど、鉛筆でゴリゴリ描いてた10年前より線決まってきたので嬉しいかも。
デッサン狂ってるとか、細かいことは抜きに、ただ線を走らせてると、見えるものもあるのかもしれない。

 

--- 追記

これをイラスト専用のInstagramハッシュタグを付けてUPして見たら、ご本人から♡をいただきました...恥ずかし嬉しや///

こんな事が起こる時代になったんだなぁ、と改めて思う。

インターネットが出来て、SNSというものが発達して、この世界はより広がりを見せているんだなったんだなぁと実感した。

「バント」からの「フルスイング」

WBCが始まった。
今でこそ必要な時以外は、全くテレビを見なくなったが、元はと言えば、私は24時間THE・テレビっ子であった。
昨日の夜のニュースを見て、球場の勢いが懐かしく思えた。
知り合いの元高校球児がinstagramで現地観戦の様子を投稿していて、「兄さん、良い席で観過ぎでしょ...」なんて思ってしまう。

 

*****

 

亡き祖父は、自身がバスケの監督をしていた事もあり、ありとあらゆるスポーツを見る事が好きだった。おそらくルールを把握して、どの選手を起用するか、自分なりの采配を考えるのが好きだったんだろう。亡くなった今となっては、それも聞けず。ただ中学生だった当時の私が聞ける技量も無かったな、と思う。

 

幼少期を祖父母に育てられた身としては、晩御飯を食べながら、一緒にセ・リーグの試合を見ていたので、野球の知識はホイホイとついてくる。オリンピックの時期は、ありとあらゆるスポーツを見るので、私は選手の絵をチラシの裏に描きながら、祖父に「あれは何?何を争うの??どうしたら点が入るの???」などと聞きまくっていたものだ。おかげでスポーツ選手のフォームを描くのは上手いとは言えないが、今でも好きだ。

 

4つ下の弟は、気づけばパ・リーグのファンになっていた。やたらとホークス選手に詳しくなっていた。「ぇ。どうして若鷹軍団なん?」と過去に理由を聞いたのだけれど、もう15年も前の話なので、お互いに覚えていないだろう。でも、当時、鳥取市内には、ダイエーがあったので、そこからじゃないかな、なんて思う。ダイエーホークスでしたからね、当時。

 

家族が野球部に所属していたわけではないけれど、家にバットとボールとグラブはあって。早く帰った日や気分転換がてらに、よく弟や父と、キャッチボールやバッティングをしたものだ。
自分で言うのもあれなんだけど、私はスゴく運動音痴なんです。まともに出来るスポーツは、卓球だけ。本当に。
キャッチボールやバッティングに付き合うのは良いんだけど、遠投は出来ない、皮膚のおかげでグラブは上手く捌けない、バットを振っても空振りだ。
でも何故か、ボールを投げるのも、バットを振るのも楽しくて、出来ないなりに弟と父に付き合ってもらっていたな、なんて思う。

 


そんな私だが、ある行動を知って、少し気が晴れたのだ。
それは「バント」という存在。

 

“バント職人"と呼ばれる川相選手がいた。試合で登場する度に「きた!川相だ!!!」なんて興奮してしまっていた。
「バント」とは、犠打だ。自分を犠牲にして、走者を次の塁に進塁させる。川相選手はその名手である。
仕事を確実にこなし、ベンチへ戻る。その哀愁漂う姿をとてもカッコイイと思っている。

 

私は安易な気持ちで「バント」をやってみることにした。
「バント」はバットを振らずとも、球がバッドに当たる確率が高い。
バッターボックスに立つ意味があるのだ。チームに貢献出来ない選手は、出させてもらえないのが、世の常でしょう。「バント」をする事でチームに貢献出来るのであれば、それは一つの価値なのだ。

 

めちゃくちゃ「バント」が上手くなったわけではないけれど、「バント」は出来るようになった口。「バント」から「フルスイング」して、それが二遊間を超えると、それはそれでトリッキーで楽しい事もしている。これは私しか知らない世界だとも思う。

 

このプレイスタイルは、他のスポーツでもそうだな、と思うところがある。私は卓球では、カットマンと呼ばれるスタイルで闘う。有名どころで言うと、ピンポンのスマイル、のやり方だ。
卓球は撃ち合うスポーツなんだけれど、カットマンは、すぐに返さない。一呼吸置いて、球を掬うように、相手のフィールドに持っていく。どちらかが折れるまでのシーソーゲームなんだけど、時にはトリッキーにスマッシュもする。

 

私は、トリッキーな物事が好きなのかもしれない。あぁ、なるほどな。

 

*****

 

なんで、こんな文章を綴ってしまったか、というと、いろいろ思うところがあって。

"あぁ、私はバッターボックスに立たせてもらってるのに、「バント」すら出来ていなかったのか。"

と。気づいたから。

 


この記事を読んで、「思いっきり、バットを振れる環境に身をおくことが大事」という箇所がひっかかって。
「確かにそうなんだけど、じゃあ、自分は思いっきり、バットを振れる気持ちでいるのか???」
とも思った。

 

私は、今、気持ち的に思いっきり、バットを振れるメンタリティでは無く。そうしてしまったのも、自分だし、そこから脱するのも、自分。だと思っている。
うん。どんどん萎縮してしまって、潰れたり、這い上がったりを笑えるぐらいに繰り返している。メンタルは強くなんてなく、ただの紙だ。薄っぺらいので、やられてしまった方が、相手の気も晴れるから、もうやられる事に徹しても良いのでは、なんて。ただ、やられっぱなしは良くないので、打開策どうしよう、て考えてるけど、深淵にハマっていて。でもハマらせているのも、そこにいようとしているのも、自分だから、やっぱり質が悪い。
環境は大事な事だけれど、じゃあ自分がどうしたいか、という事柄は一生付きまとうのだ。重い覚悟は身を苦しめる事もあるけれど、覚悟はいるね。覚えて悟ろうよ。

 

で、WBCの流れからこの記事を読んで、この文章を書いてみて、

"あぁ、そうだ。私、「バント」が好きだったんだよね。出来たんだよね。"

って事を、思い出す事が出来た。

 


とりあえず「バント」からもう一度始めてみよう。
「フルスイング」は当てる確率が少ないから、たまにで。
降って当てれないなら、出来る確率が高い「バント」をしてみた方がバッターボックスにいる意味がある。
存在意義を成そうよ。君は頭数を埋めるだけの存在じゃないのだからさ。

 

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ちょうど昔描いた絵が上手い事、当てはまる事もあるんだね、と。

ちょっとしたボタンの掛け違い

それから、ちょっとしたボタンの掛け違えがあれば出会えなかった多くの方々。
本当に多くの人々に出会い、それぞれの美しい物語の断片に触れました。すべてぼくには、大切な物語です。これらを編みあげるためには、ゆっくり咀嚼する時が必要ですが、また新たな物語として、みなさんにお届けしたいです:)


ボタンはきっちりと留めるもの。
でもたまに、ボーッとしてたり、焦ってしまって物事を進めると、掛け違ってしまう。
それは大概は、ネガティブに捉え、時に悪い方向となる事が多い。
「ボタンは掛け違えない方が良いものだ。」
それは物事の根底に流れる1つの筋のようにも思う。正論だ。

 

だけれども、その人は今回の掛け違いをとてもポジティブにまとめ、またその掛け違いの1人となった私自身も、「そうそう。こういう掛け違いが、私は、とっても大好きなんだよね。」って。
私はやはり、少しズレていて、その歪みに楽しさを見出して生きてるようだ。

 


ボタンを掛け違えるためには、
たくさんの"if"が
多くの行動が
少しの時間が
そこには必要だ。
層は積み重なり、パーツは増えていく。

 

必ずしも同じ物など1つもない。
整然とされた物事はもちろん美しい。ホワイトキューブに、キャンバスに、羅列された直線はとても綺麗だ。それも一つの好きな世界である。
それでも私は同じ物より、そこでしか出会えない、見れない何かが大好きで、愛すべきものの様に思っている。
直線にリズムや動きが生まれる。強弱がついた直線は、美しいとは思わないかもしれないけれど、面白いな、楽しそうだな、と感じる。そこに+αの美しさを感じる線を書ける人は、身近なところで言うと私の父親で。自身の根幹にある私なりの美意識や観る目は、父親を通して養われてしまったのかなぁ、なんてこれを綴りながら思う。


話を戻そう。


パーツが増えるということは、

掛け違えも増えるという事
組み合わせを間違える事もあるという事
配合を間違えるという事
出す手札を間違えるという事
持っている事に満足なり安心を感じてしまい動きが鈍るという事

そんなマイナスな部分もあれば

掛け違えから生まれる新たな発見もあるという事
上手い組み合わせで最適解を出せるという事
配合次第で爆発的な物を生み出せるという事
切り札を持っているという事
持っているからこそ動ける事があるという事

そういったプラスな部分もあるのだ。

パーツを1つ持ったら、表も裏も、良さも悪さも、自分なりに消化しなければいけない。相手に委ねるのではなく、それを持っているのは、自分自身なんだから、自分で考えないと。妄想でもなんでもさ、その方が面白い。
なんて思う。

 


人より、たくさんのボタンの掛け違いをしてきた。
そこで生まれた何かも多く、そこで失った何かも多い。

今回の掛け違えで、私は憧れだった人と気負いせずに話せるようになったのだ、と思う。原点になった人達の最後の人に会えたのだ。
それぞれの形で。それぞれのコミュニケーションを。今もとっている。

 

2011年、6年前の私。
びっくりでしょ。まさか私もこんな形で出会うと思ってなかったよ。
ただの好奇心で行っただけなのに。

そう思うと私のフットワークの軽さは、自分自身で認めてあげるべきな、1つの良さ、なんだろう。ようやく自覚出来た。

 

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掛け違えは、何かを気づかせて、何かを失わせている。
私は気付いたけれど、おそらくまた何かが失落したんだろう。
そうだとしても、この掛け違いは素敵な出来事であったと、改めてここに綴っておきたかったのだ。

 

春の足音が聞こえる。花粉が舞っている。くしゃみが止まらない。
暖かな日差しが照らす。頭の回転も落ち着いてくる。
何かしらの凍土がなんらかの形で溶けていく。
出会いと別れの季節が、またやってきたのだ。