語れない卓上のサクセスストーリー
中学時代に、県内最弱から県ベスト4にまで登り詰めるサクセスストーリーみたいな3年間をマネージャー兼補欠みたいな立ち位置で経験出来た卓球部にいたのは、今思っても稀有。
— KURA (@KurAruK) 2017年5月15日
どちらかに振り切った方がきっと楽だったんだろうな、と思う。だけど、それが出来なかったのは、どちらかが欠けたらつまらないと思っていたから。良くも悪くも、私は放課後の何が起こるか分からないあの状況が、面白く愛おしいと思ってたんだろうな。そんな思春期の思い出。
— KURA (@KurAruK) 2017年5月15日
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「選んだことだから」
「運があったから」
「タイミングだよ」
それを表すには、いくつもの解があるだろうけど
「呼ばれていた」
これは全ての根底にあるような気がするのだ
今、ここにいるのは、「呼ばれていた」からだ。
次のステージに進む時は、次のステージにある何かに「呼ばれている」んだろう。
だから動くのだ。
そんな事を知人の行く末を見て思い、また自分に照らしあわせる。
あいさつ
外国語を覚える時は、毎回「あいさつ」から覚えている。
その国の言葉をきちんと話せなくても「あいさつ」は、ちゃんとしておきたいからだ。
所用があり、ドイツ語を調べていた。
初めて覚えたドイツ語は「Guten Morgen(おはよう)」。
語呂が良かったのか、覚えたての頃、よく家族に向けて使っていた。ハマっていた。
私は覚えた言葉があると、すぐ家族に向けて言っていたのだ。
そんな思い出を振り返りながら、「いただきます」と「ごちそうさま」を調べてみる。
ドイツ語には、無いらしい。
「いただきます」は、近い言葉として食事の前に一緒に食事をとる人同士で、「良い食事を」と言い合うものがある。
「ごちそうさま」は、作ってくれた人や招待してくれた人に感謝を伝えるのがドイツ流。
「Mahlzeit(マールツァィト)」という言葉を言い合うそうだ。
食事の時に使う「hello」みたいなものらしい。
そんな情報を得てみて、「あいさつ」は誰かのために使う言葉なんだなぁ、と改めて思う。
そこに誰がいなくと、見えなくとも、誰かは必ずいるのだ。
だからこそ、「あいさつ」は輝く。
私は、「ごちそうさま」と「ありがとう」は必ず言うようにしている。
それは目の前の相手に対してだけでなく、全てがそれに詰まっているからだ。
「あいさつ」は簡単だけど全てがあるなぁ、なんて思ってみるのだ。