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見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

語れない卓上のサクセスストーリー

 

こうつぶやいてしまったように、そんな中学生活を送った。
中二病全開かつ学力面で成績が乏しくなかった私にとって、中学生活において最も生き生きしていた時間は、間違いなく部活動であった。*1
 
県内最弱の女子卓球部。
3年の先輩達が引退した後、新しく部長になったたった1人の2年生。
先輩をサポートしつつ、県クラスへレベルアップしようと誓い合った私達1年生。
部活漬けの毎日。1軍と2軍でひらくレベル差。
季節が巡り、新しく入部したたった1人の県トップレベルの新1年生。
月日を重ねる毎に1軍と2軍で広がる確執。。。
勝ち取った県大会決勝トーナメント
 
何かの漫画を読んでいるかのような、登場人物達とストーリーが展開されていた時間。
 
「あぁ、これを漫画にしたら、面白いだろうな。でもピンポンがあるから売れないな〜〜〜」
なんて球を打ち返す。
 
私は、1軍補欠兼マネージャー役として立ち回っていた。
同期の1軍と2軍、両メンバーとも仲が良く、前後のたった1人の先輩と後輩とも仲が良かった。
普段の練習が楽しい分、広がる確執に耐えられず、どこか浮世離れした行動をとっていたのも事実である。
 
そういうこともあり、これをより掘り下げて表立って語ってしまうと、当時の誰かが傷ついてしまう。
「過去の話なんだから笑い事に変えてしまえば良いのだよ。」と思われるかもしれないが、傷つく・傷つかないは、私が判断する内容ではなく、読者たるその人だ。
そんな事を気にしていたら創作もなにもないのだけど、私は故意に傷つけるのは、二度としたくない。
 
それでも何故、こうして書いているかというと、
やはり濃密で稀有な体験だったって事をちゃんと残しておきたかったのだ。
 
中学時代は暗黒期で思い出したくないのだが、全てをブラックボックスに入れるのは間違っていて。
今、1つずつ紐解いていくと、大切な何かが詰まっていて、今へのヒントになってる。
そんな思いでいっぱいなのだ。
 

 

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+++ 以下反転 +++
 
語れない理由として、直接のチームメイトではないが、
関係者の1人が若くして亡くなっているからというのもある。
 
弔いのために語るのは、なんだか誰かの傷をえぐってしまいそうで。
それは私自身もそうなのだけれど。
 
ただ、彼は、私達にとって、間違いなく味方であり口下手で心優しきヒーローだった。
 
だからこそ、彼が今、この世にいない事が惜しく、何より自らの手で幕を終わらせてしまった事実が10年近く経った今も受け入れ難い。
 
++++++++++++++
 

*1: 勉強が楽しくなったのは、高校生になってからで。正に十五志学だ。 

「選んだことだから」

「運があったから」

「タイミングだよ」

 

それを表すには、いくつもの解があるだろうけど

「呼ばれていた」

これは全ての根底にあるような気がするのだ

 

今、ここにいるのは、「呼ばれていた」からだ。

次のステージに進む時は、次のステージにある何かに「呼ばれている」んだろう。

だから動くのだ。

 

そんな事を知人の行く末を見て思い、また自分に照らしあわせる。

あいさつ

外国語を覚える時は、毎回「あいさつ」から覚えている。

その国の言葉をきちんと話せなくても「あいさつ」は、ちゃんとしておきたいからだ。

 

所用があり、ドイツ語を調べていた。

 

初めて覚えたドイツ語は「Guten Morgen(おはよう)」。

語呂が良かったのか、覚えたての頃、よく家族に向けて使っていた。ハマっていた。

私は覚えた言葉があると、すぐ家族に向けて言っていたのだ。

 

そんな思い出を振り返りながら、「いただきます」と「ごちそうさま」を調べてみる。

ドイツ語には、無いらしい。

 

「いただきます」は、近い言葉として食事の前に一緒に食事をとる人同士で、「良い食事を」と言い合うものがある。

「ごちそうさま」は、作ってくれた人や招待してくれた人に感謝を伝えるのがドイツ流。

「Mahlzeit(マールツァィト)」という言葉を言い合うそうだ。

食事の時に使う「hello」みたいなものらしい。

 

そんな情報を得てみて、「あいさつ」は誰かのために使う言葉なんだなぁ、と改めて思う。

そこに誰がいなくと、見えなくとも、誰かは必ずいるのだ。

だからこそ、「あいさつ」は輝く。

 

私は、「ごちそうさま」と「ありがとう」は必ず言うようにしている。

それは目の前の相手に対してだけでなく、全てがそれに詰まっているからだ。

「あいさつ」は簡単だけど全てがあるなぁ、なんて思ってみるのだ。