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見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

軒先の枇杷

先日の淡路島のお土産をようやく分配した。

 

その中に枇杷の葛餅があった。

「なんで、購入したんだっけか。」

と渡して、食して、寝て、ハッと思い出す。

 

実家の畑に枇杷の木があった。

玄関を出ると、背が低く、ちょこんと居座った枇杷の木が必ず見える。

苗木を買ってきたのではなく、祖母が枇杷の種を生ゴミと一緒に埋めたところ、気づいた成っていたのだ。

「自然発生?水も上げてないのになぁ、植物すごいな〜」と10歳かそこらの私は大変感心したものだ。

 

とは言え、私は、枇杷という果物がそれほど好きではなく。

 

自然発生した枇杷の木は、誰の力も借りる事なく、勝手に育つ。

祖母が元気だった頃は、実を採って、いろいろと加工していたが、

そんな彼女も弱り、亡くなり。

 

先日、今年初めて帰省した時に、気づいた。

「あれ?枇杷の木は?」

 

この時期になれば、鬱陶しいぐらい生いしげり、父の車を覆いかぶさっていた葉はなく。

見慣れた風景を見下ろせば、切り株があった。

 

「あぁ。切ったんだよ。しょうがないけど。」

と父が言う。

 

手をかける事なく育った木も、さすがに弱ってきたらしく、

まだ力がある内に切ってしまおう、と判断した父が切ったらしい。

個人的には、職人の手なのだから、もっと自身の手を労って欲しいとこなんだけど。

 

帰る度に、そこに在ったものが無くなっていく。

それはしょうがない事だ。

この地から離れて暮らす事を選んだ私にとっては。

 

ずっと一緒にいれば、同じ時を歩み、分かち合い、失物の悲しみも共有出来るだろう。

 

でも、それを選ばなかった。

だから、そういう感覚になるのは、しょうがない事だ。

悲しいとか、寂しいとかでは無い、ぽっかりと穴が空いたような感覚。

土から根を抜いた穴だったり、枇杷の種くりぬいた穴だったり。

 

「あぁ、無いな。」

 

無い物ねだりは、無意味だから、新しく作るしかないなぁ、なんて思うんだけど。

あぁ、無いなぁ。

これは選ばなかった者への、自己呪術みたいなやつか。

穴は埋めなきゃいけないって本当かしら。

拒絶してしまう何かで埋めるよりも自分を満たす透き通った何かの方が余程健全だ。

 

血の繋がった他人に学ぶ事

6月は、血縁者に会う機会が多かった。
なんでもない日の実家の帰省に始まり、
以前から従兄と話に上がっていた日帰り旅行を弟と親戚達と共に行く。


京都にいない週末が多く、先日の週末に街をふらついてみると、
「ほんと...相変わらずどこにでもいるなぁ!」
「京都にいないものかと思ってたよ。いや〜フットワークが軽いね。」
なんて。

たまたま立ち寄った店で働いていた大学同期や接客中の知人に言われる。
褒められているような、そうじゃないような。これは褒められているんだろうか。

そんな日に、大きな本屋に寄ってみる。
三条のBALが改装されジュンク堂が無くなったとは言えど、リニューアル後に入った丸善書物の豊富さは、私の足をうめだンジョンへ向かわせる事はなくなった。
完結するのであれば、近場が一番良いものなので。


本屋や図書館が静かな場所だと感じた事はない。
あれは、ひしめく空間だ。

「手に取ってくれ!」とカバーのデザインで主張をし、
ページを捲るたびに、ベラベラと語りかけてくる。圧倒的な情報量を与えてくる。
個性の塊達が集まって騒いでる、そういう空間なのだ。
「今日はこうしないと」という少し強い意志がないと、移りめいてしまう。

とはいえ、2時間ほど滞在して7冊分買って帰る私に強い意志はあったのか、否か。

 

その中で、私にしては珍しく、絵本を買った。

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https://www.amazon.co.jp/ぼくのおじいちゃん-カタリーナ-ソブラル/dp/4877587608

早い話、パッケージ買いである。
表紙から垣間見える、キャラクターの可愛さ・配色センスの良さ、訳:松浦弥太郎
それだけで十分だ。


帰宅して、寝る前にパラパラとページを捲る。

絵本の楽しみ方はたくさんある。
普通に読むのはもちろんなんだけど、絵だけで楽しんでも良い。
添えられた言葉だけを楽しんでも、何往復しても、気になったページに急に立ち戻っても良い。
絵本だけじゃなくて、読書の楽しみ方って無限大。

その本は、そんな事を思い出させてくれる。
本の帯に松浦弥太郎さんのコメントが載っていた。

“おじいちゃんになること。それはどんどん素敵になることです。"


この本を読みながら、私は亡くなった2人の祖父を思い出していた。
2人とも早くに亡くなってしまい、まともに交流をしていたのは小学生の頃までなんだけど、絵本に出てくるライトさんに重なるような、そんな思いだった。

この年齢になって祖父達に聴きたかった事が山ほどある。

でも故人を追ってはいけない。先に進めないから。

 

たくさんの血の繋がりを感じた6月は、昔と今を繋げてくれた。

そしてこれからやっていく事の光が、道筋が見えてきた。

 

私は、もっと広い世界が知りたい。

大海を渡る術を得たい。

自分を壊し続けて、新しい私になっていきたい。

何歳だろうと。

 

根っこが見えた。

同じ血から見えるものがあった。

だから、無理せずコツコツとよじ登って良いんだ、作って良いんだ、そうだ。 


これを2017年上半期の最後の日に書くのもどうかと思うんだけど、これを持って上半期終了としよう。
明日から下半期。
さぁ、後は気流に乗る覚悟と行動だけだ。
まだ、この足の軽さを、絶やすつもりは、ない。

いつまでも若々しい羽根を持ち続けるために手入れを忘れてはいけない。

7月の手招き

久しぶりに夜の街を駆け抜ける。

自転車で、シュッと。

アルコールは飛んで、視界はクリア。

酔い濁った視界は好きじゃない。

 

視界の中に飛び込んでくるものがある。

提灯。

大通りからちょっと入った商店街。

大通りに出るまでの商店街。

アーケードの下に、でかでかとぶら下がる。

灯らずにスヤスヤと眠る提灯。

 

私はそれを見て、

「7月が手招きしてるみたい。」

と思った。

 

6月の終わりを感じるのでなく、

もうすぐ来る7月を感じた。

 

四季をあまり感じなくなった。

この世界は終わりに向かってると思う。

いつ来るか分からない、突然来るかもしれない。

終わり。

 

人は終わりに向かって進むんだけど、

365日と12ヶ月と1年を

数として捉え、感じる事は出来るのだ。

 

梅雨も夏も、もう分からないや。

ただ確実に、7月は手招きをしている。

それだけで十分なんだよ。

 

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