kuraruk.blog

見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

発酵と排泄

「クラッちゃんは、一度SNSをお休みしても良いんじゃないかな。」
「ふぇっ?」
「自分で文章を、作品を、作ってみて、完成させてみて感じたことがあるんだ。物事には、”発酵”と”排泄”があることを。クラちゃんは、インプットが多い分、twitter上でのアウトプットも多いように思う。でも、それはほとんどが”排泄”なんじゃないかな。私は、君の”発酵”したものが見たい。大量のインプットの先にどんなアウトプットがあるのか、見てみたいんだよ。」

 

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そんなことを先週末に言われる。
相変わらずSNSに垂れ流すことはやっているんだけど、少し数を減らす。
前からEvernoteに書き続けていた長文がより長くなる。

先週からの怒涛の毎日の中、オール明けの神保町で半分寝ている脳と向き合い付き合いながら、移動中の新幹線で寝て起きて綴るを繰り返す。


綴られたそれらは、”発酵”したものと呼ぶにはまだまだで、どちらかというと”排泄”なんだろうけども。
私は自分の中で一度溜めることにした。寝かすことにした。置いてみることにした。
ぼんやり、ぼんやり、眺めてみることにした。
そして、見えないところで練習してみることにした。

一度、自分の中で、納得のいくリズムに立ち返ってみることにした。
過去の自分の行動を少し思い返して、たまに取り入れることにした。
私には、そういうことしか出来ないけれど、そういうことは出来る。

それに気づけただけでも幸せなことだ。
それに気づけなくてしんどかったのだから。
それに気づいていても行動の仕方が分からなかったのだから。

 

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ふと見上げた東京の空は、私の好きなグラデーションの夕景だった。
しばらく媒体を変えながら、もう少し試行錯誤して「ことば」に向き合っていこうと思います。
そんな11月22日です。

続けることを続けている

今年の下半期から出勤時間を早めている。
7月から実験的に始めて、8月からこの11月までずっと8:30から仕事を始めている状態。
今の会社はフレックス制ではないのだけれど、時間を変則的に調整することは可能なのだ。

きっかけは、

  • 夏だしサマータイムで動きたい(実際は忙しすぎてあまり意味がなかった)
  • 8:30から働くメンバーもいたので自分もしてみるか(時間が限られている中で仕事をしているメンバーを見て、朝弱いをいつまでも言い訳には出来ないなと思って)
  • そういえば新卒時代のメンター兄さんがずっとこの時間から仕事してたっけ(実際は通常業務出来ないスキルのピックアップなど自分のスキルを磨くための時間を確保していた。エンジニアだけどプロマネやらデザインも出来るマルチなタイプな方だったので。)

とかとか。

 

この勤務にしてから、

  • 規則正しく朝起きるようになった(前日に日付が変わるまで飲んでも起きてしまう)
  • 出社すると人が少ないので余裕を持って仕事を始められるようになった。
  • 早く帰れる時は、17:00に会社を出ることも出来るので、予定を立てやすくなった。

まぁ業界的には早い方かもしれないけれど、私は割と気に入っていて、来年以降も続けていけられればなと思っている。

とはいえ、続けてまだ3ヶ月。
3日坊主になってないからもう大丈夫だ。もう自分の中で当たり前になってしまったのだから。

 

今年の最初に"新年の何か"という文章を書いていて、その中で「サイクルを整える」という項目があった。

当たり前の事のようで、これを当たり前にするのが難しい。

当たり前にするきっかけはいくらでもあるんだけれど、それを続けていくのは難しいと思う。でもコツコツと続けていくと良いこともあるものだと、今の会社で教えられ掴んでいるように思う。

今の私に大切なのは、続けることを続けていくことなのだ。
そのサイクルはいつか大きなものになるのだから。

波を整える

自慢じゃないけど波持ちの人間である。
これは、病気と診断されたとかじゃなくて、昔からの性質で、逃れられない性質で、上手くコントロールしていかないといけない性質で。

そんな性質の私は、昔から、もう1人の自分を常に同居させている。
これも、病気と診断されたとかじゃなくて、昔からいて、「まぁまぁ落ち着け」と宥めてくれて、時には入れ替わって演じてくれる、今より中性的で中立な自分。

で、今までは、そんなもう1人に頼りきって、本来の自分をずっと甘やかしていた。

「波があるから仕方ない。」
「もう1人がいるから、”私”は引っ込んでいれば大丈夫。上手くやってくれている。」

何かと理由をつけて、自身の成長を止めていた。

 

 

今から4年ほど前か。
私は、もう1人に頼らなくなった。いや、頼れなくなった。
もう1人の自分が突如いなくなったのだ。
いろんな変化の中で、もう1人を生み出す余裕が無くなった。つまり、リミッターが外れた。

そこから先は、てんやわんやで、こんなに感情の起伏が激しいのか、と振り返っては自責の念にかられる。
すっと後ろを振り返ると笑い話が転がっていて「ははは。もう申し訳ない。」と苦笑いをして懺悔する。

ただ、その中で、本来の”私”は確実に成長していった。
たくさんのことを経験し、純粋なまま育った心は、打ち砕かれてもその純粋さを保っている。
自分ごとながら、腐るでも恨むでもなく、ありのままを受け止められる精神があったのは、ずっと何かに守られていたように思う。根っこも心も、結局はいつまでも10代のあの景色のままなのだ。
“私”は、”私”として、少しずつ階段を昇り始めた。
揉まれながらも何しながらも歩むことをやめないと、そう決めたのだ。

波が起こっても、その波を無理に抑えようとするんじゃなくて、乗るように寄り添う。
だんだんと波が整っていった。
この感覚に気付けてきたのは、ここ1年の話。ようやく世界が開けてきた。


波が整ってきた先にもう1人の姿が見えてきたが、私は助けを求めなかった。


「もう、ちゃんと。歩けてるよ。」

そうやってニカッっと笑ってみせると、もう1人は、

「じゃあ、もう大丈夫だ。いつでも見てるから。」

そうやって微笑を浮かべていた。

 

半分は溶け合って、半分は自己を保つ。
自分を客観視して、律する存在は、やはり必要なんだ。

 

 

おかげさまで私は立てている。
自身の成長と共にたくさんの人を巻き込みながら。
それも含め、私はこの波を乗りこなして、還元していきたいのだ。

周りがそう思ってくれているように
私も本来自分が成すべき役割をそう望んでいる。