"親友"の話
日本中から、いや世界中から千人の「ともだち」を探すのは簡単になった。ただ、たった一人の「親友」を見つけることについては、昔もいまも、なんにも変わっちゃいない。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2014年6月28日
こんな一節を先日読んでいた本を読んでいた中で見ました。
確かにそうだ、と思いつつ、
自分にとっての"親友"を想像したり、
自分の身の回りの人達の"親友"像を思い浮かべてみる。
私の中で、"親友"とは、友情とはこうあるべきだ、
というのを体現してるのは、自分の父だと思っています。
ちょうど昨日、父が泊まりに来ている事もあって、
「そうだな〜」と、いろんな思いが交錯してしみじみ思っちゃったり、
なんだか脳内を整理したくなったので、ここに綴っておきます。
# 例の如く、長いしエモいですよ、っと。
私の父は、「パッと見は堅物っぽい先生!!と思いきや話すとひょうきん☆」みたいなギャップのある人で、人によって彼の評価は分かれる。
非常にドライ or めちゃくちゃ面白い。
家族内では家族一自由過ぎる。
私はよく、「クララさんは自由ですよね〜」と言われるのだが、
父はそれ以上に自由を極めているので、よく家族内でフルボッコにされる。
(愛のある弄りです。)
そんな父の"親友"は、もうこの世にいない。
父の"親友"であるMさんは、いわゆるヒッピーみたいな人で、父とは全く真逆のタイプだったように思う。
高校時代からの友人らしく、Mさんは沖縄で不動産をやっていたり、中国でバイヤーをやっていたり、会う度に何をやっているか分からない自由人。
1年に数回忘れた頃にFAXが届いて、それをニヤニヤと読んでいる父は、毎回嬉しそうだった。
数年に1度、年末年始のどこかで、我が家に一升瓶と中国で買ってきたであろう古文書を持って嵐のようにやってくるMさん。
父はお酒が弱いし、普段の飲み会は必ず1次会で帰ってくるのに、Mさんが来た時だけは人が変わったように朝まで語り合う。
普段の生活の中でもそんなに楽しそうな父を見た事は無かったので、Mさんは父の"親友"なんだなぁ、というのは子どもながらに分かった。
Mさんの生前、一度だけお酒の席に付き合った事がある。
(もちろん、20歳は超えてます。)
父の高校時代の話を聞いたり、中国でのおもしろエピソードを聞いてたり。
話を聞いてるだけでワクワクしたし、アルコール度数のキツいお酒を飲まされ、翌日は二日酔いで何もできなかった記憶がある。
Mさんは、結婚していなかった。
私の事を娘のように接してくれていたのだと思う。
数年に1度、訳の分からない陽気な仙人のようなMさんがやってくる事は、「陸の孤島は田舎でつまらないなぁ」と思っている私にとっては非常に刺激的だった。
Mさんが身体を壊して実家に戻ってきたのは、たしか4年前。
両親は他界し、兄弟も県外に出ている、結婚もしていない。
そんな彼を見舞っていたのは、他ならぬ父であった。
帰省していた際に、父についていって、一緒に見舞いに行こうとしたのだが、
「そんなに元気のないMを見せれないし、Mもそれを望んでいないから、クララは来ない方が良いよ。」
と断られた。だから、きっと良くなって、また会えるのだなぁ、と思っていた。
まぁ、そんな日は来なかった。
私がMさんの死を知らされたのは、2年前の年末。
実際に亡くなったのは、それよりも少し前であったのだが、
私は、自分の今後の身の振り方について(主に仕事面)、葛藤していた時期だったため、追い打ちをかけまいと、あえて知らされなかったのだ。
連絡して欲しかったなぁ、と思いつつ、
娘に心配をかけまいと配慮した父も、人としての心があったのだなぁ、と思う。
Mさんが亡くなってから、父は彼のために毎日写経をし、
彼の遺言通り、日本海や山にお骨をまきに行ったり、物を処分したり。
そんな日々を過ごし、Mさんがいないという実感を、自分の中で消化させていた。
父は、どこか、心に穴が空いたような感じであった。
父がMさんの遺作展を開くと聞いたのは、去年の梅雨の時期だった。何故か、初めて家族が地元以外で全員集合するというタイミングだった。
Mさんにゆかりのある人達との共催と聞いたけれど、
我が父ながらも相変わらずバイタリティ溢れるというか、
「この人、本当に凄いな!」と感嘆してしまった。
家族内では、頑固で融通が効かなくて、せっかちだし、一人で突っ走っちゃうし、思い通りにいかないとイライラする俺様気質のアーティストタイプで、たまに「良い加減にしてくれ!」と思う事は多々ある。尖った人だと思う。
父は、自分の作品に対する熱量も凄いけど、誰かのために何かをする時の熱量もまた凄かったなぁ、という事を思い出した。
自分が作った遺作展のDMを見せてデザイン的なアドバイスを求めてくる父は、目を輝かせた少年であった。
数ヶ月後、弟と二人でMさんの遺作展に向かう。
弟と一緒にこういうところに来るのは珍しい。
だって、父の子どもだからというので弄られる。
「恥ずかしいな〜」って事で、ずっと避けてきたのだ。
そして、入り口の文字は、父が書いたわけで。
父の書を久しぶりに見たわけで。
写真にもあるように酒屋で行われた事もあり、Mさんも集まってきた人も酒好きだったので、しこたま飲まされ、帰り際に珍しい海外のビールもゲットした。
弟は、内向的でゆっくりな人なので、こんな席は大丈夫かなぁ、と心配してたけど、案外、彼は社交的であった。お姉ちゃん、安心。
友を弔うために酒を飲む、それは異様な空間で、素敵な事だ。
皆、個人を偲んで、泣きもするし笑いもする。人望があったんだなぁ、と思う。
Mさんを語らう父の姿は、相変わらず、意気揚々としていた。
父に改めて、Mさんについて尋ねる。
「Mさんは、父さんの"親友"だった?」
と。
「そうだな。M以上の奴には、もう出会えないかもな。
もうこの世にいないけど、俺を理解してくれるのは、
俺の心にドカドカ入ってきて滅多斬りにしてくれるのは、Mだけだ。
空虚感はあるけれど、あいつは心のどこかに必ずいるんだよ。」
きっと、父にとって"親友"という存在は、
何ものにも代え難く、本当に出会うべき人だったんだろうな、と思います。
先に逝ってしまったけれども、会うべき人に会えるという事は素敵な事で、それが出来ている父は凄いなぁ、と子どもながらに思うのです。
また、自分にも"親友"がいるのですが、改めて彼女を大事にしていこうと思ったし、いつも通りの感じで、会える時に会って滅多斬りにしてくれ、って思います。
実家を離れて、自分も歳を重ねて、いろんな事を経験して、
ふと家族を見返すと以前よりも、両親や弟を素敵だなぁ、と思えてくる。
「うっとおしいな」と思う事も見方を変えれば愛情か何かなのだなぁ、と。
私は、「実家を離れて良かったなぁ」と改めて思います。
たぶん、ずっと一緒にいたら実家で生活をしていたら、そんな家族の良いところも、相変わらずうっとおしく思えてしまっていただろうから。
実際、久しぶりに父に会ったのですが、うっとおしくもあり、良いところもあり、「あぁこれが私の父親なんだな。」としみじみ思って、朝、駅まで見送った。めっちゃ眠かった。
そして、そんな家族に代わって、私の良いところも悪いところも指摘してくれる、"親友"を始めとする友人や同僚には感謝せざるを得ないです。
話が相変わらず脱線していますが、
「出会うべき人に出会っていけたら良いですよね」
って事が書きたかったように思います。
また、「出会わなければ良かった」っていう人はいなくて、
そりゃ生きていれば嫌な奴もいるし、もし何かあったのだとしても、
自分の中で何かを気づくためにその人と出会っているのだから、
それを嫌悪感で片付けるのではなく、自分の中でちゃんと消化をさせておく事も、
また大切な事のように思います。
私は、WEB制作会社に勤めていて、マークアップエンジニアがメイン業なんですが、自身の好奇心旺盛な性質が留まる事を知らないようで、たくさんの人と出会っては別れています。
その中で知らず知らずの内に相手を傷つけてしまったり、傷つけられてしまったりは、人より多く、自身を未熟だと思うところがたくさんあるわけです。
自分が良かれと思ってやった事は、相手にとっては負荷が高過ぎる事がある。
自身の行動が全て間違っていると思う事がある。
だからこそ、巻き込む人と巻き込まれる人をどうすべきか、私はどうすれば良いのかを考えてしまう。
でも、どんな物事でも過去は変えれない。
もう過ぎてしまったから。そうなってしまったから。そう決めてしまったのだから。
ただ未来を変えられるのは、今の行動や決断でしかないので、
それを「正しくあろう」ではなく「素直で誠実であろう」と、ここ最近は常々思ってやっています。
ちょっと真面目で純粋過ぎるかもしれないし、理想論かもしれない。ある意味開き直ってる。
なので、これを読んだ私の友人・知人の皆さんは「相変わらずだなぁ」と笑い飛ばしてくれると有り難いです。
そうしてもらった方が私も照れながら素直に笑えるので。
末筆になりますが、
私のブログは、これまでもこれからも人の話が多くなるかもしれません。
偶然なのかなんなのかは、よく分からないけれども、ただ、
「その人に出会えたから今の私がいる。」
「そんな出来事や人に出会えたから、こう育っちゃったんだ。」
という事を忘れたくないし、少しだけこういう人達がいたんだ、という話を聴いて欲しいので、また機会があれば綴っていこうと思います。
書かれる人達には先に「ごめんなさい」と伝えておくけれど、
「あなたに会えたので今の私がいるのです」とインターネットという海に
宛ての無いボトルを投げてみるのです。
生きてるだけで素敵な事です。どうぞ素敵なあなたで。