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見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

脳内備忘録:「話す」

# あくまでも脳内整理

 

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今でこそ「サシで話す」という事は好きだけど、
地元にいた18年間、というか、20歳になるまで、とても嫌な事だった。


誰かと絡むにしても3人以上なり、1対1になる状況をなるべく作らない。

誰かと誰かの繋ぎ役である自分はそういう役回りだろうと思っていたし、また自分の友人・知人同士が仲良くなる姿を見るのがとても嬉しいと思う自分がいる。

そんな明るく振る舞う聖者のような自分もいれば、深い部分を見られたくない、何も持っていない自分を見られたくない、えっとこの人とは何を話して良いのやらと思い、どこかで壁のようなものを作っている根暗な自分もいるのである。

 

なるべく嫌われたくないし、
自分がいる事で楽しい場で良かったと思ってもらいたいわけだ。
認められたいけど、どこかで逃げてる。
これは、自分の嫌な一面なので、直していかないといけないと思ってる。

 


先日の帰省の際に幼馴染から言われた事は、
「君は20年前と変わらない社交的な根暗」
である。

 

「話す」は、好きなんだけど、嫌だ。
「話す」と私は、天邪鬼な関係のような気がしてる。

 

 

私が「サシで話す」行為が好きになったのは、
おそらく人生のメンターだと思っている
おじさんやお兄さん、お姉さん達のおかげだと思う。

人生なり、制作なりで悩んでしまい、一人暮らしで家族に相談などが出来なくなり、悩む私を救ってくれたのは、いつだって少し年上の人生の先輩の存在であった。

 

たわいもない近況報告からお悩み相談、人生的なアドバイスまで。

「サシで話す」のは、互いが面と向かって「話す」事だ。
その人にとって、どうでも良い人なら、そんな事はしないだろう。

そんな「サシで話す」事を繰り返す内に、
私の中でネガティブだった「話す」は、以前よりもハードルの低い事になったし、「これがないと始まらないでしょ」といったポジティブなものに変わっていった。
もう少し自分をさらけ出そうとか、良いものは良い、と言っていこうとか。
伝えないと何も解決できないよね、とか。
「話す」事で変わるものはたくさんある。

そんな事を繰り返している内に教えられた気がしているのだ。


そんな経緯もあり、今では同世代とも、
以前よりもちゃんと話せられるようになったと思ってる。
思ってるよー。(棒読)

 

 

私が大学4年間を過ごした場所では、
「あらゆる物事がデザインだ」という事を一番学んだように思う。

ビジュアルやプロダクトといったものだけではなく、人とのコミュニケーション、空間、時間、全てがデザインなのだ。

例えば、「料理」というものに対して考えてみると、
料理に使う食材、調味料、盛り付ける皿、料理を食べる空間、食べた人がどう思うか、という事まで、それはデザイン出来るものなのだ、という事。


そして「話す」事もまたデザイン出来るものだ。
「話す」題材、空間、時間、誰と話すのか。
それもまたデザイン出来るものである。

デザインしたものによって、相手を楽しませるのか、不快にさせるのか。
それはその人の力量であると思うし、またどのようなデザイン物を生み出したいのかにもよるだろう。


「話す」は自分一人では成り立たない行為だ。
たまに自己との対話もあるけれど、必ず相手がいる。
目の前の相手をどうしたいのか、それもまた自分の力量次第なのかもしれないし、
未熟でも良いので、一先ずやってみないと何も始まらないのだ。
お互いが見てきた世界は絶対に違うのだから。

そりゃそうなのだけれど、そこで化学反応が起こって、
何かが動くのだから、「話す」は無くてはならない大切な事だと
改めて思うわけです。