終わらない文化祭
ああいう行事はめんどくさいとおもうけど、クール気取りで参加しないと大人になって後悔するからその時期恥ずかしいと思うことほどやっといたほうがいいよ 結構そのときの行動があとあと自分に影響を及ぼすしね 自分が漫画描いたり色々挑戦できるのは高校の時に文化祭委員長やってふっきれたの大きい
— 日本橋ヨヲコ★10/12G戦完全版3発売 (@yowoko) 2016年10月6日
なので文化祭はがんばれ なんでも受け身じゃなくて主体的に参加するとむちゃくちゃおもしろいからね😊わたしは今でも終わらない文化祭がやりたくて漫画家やってるよ
— 日本橋ヨヲコ★10/12G戦完全版3発売 (@yowoko) 2016年10月6日
G戦場ヘヴンズドアを初めた読んだのは、
それこそ中学2年生の絶賛中二病発動期間だった。
今はドイツでガラスや陶芸を学んでいる腐れ縁のような幼馴染から
「面白いんだけどさ、読む?」
と言われて渡された3冊の漫画は、衝撃的だった。
漫画は人を変えてしまう。
18話で収められたとは思えない熱量を何度も読み返した。
このツイートを思い出したのは、久しぶりに大学時代のクラスメートと後輩に会ってのんびりと語らったから、だと思う。
山の上での4年間というのは、常に"終わらない文化祭"であった。
課題に、イベントに、制作に。
「注ぎ込めるものは注ぎ込めよ。」を体現しているような二人だったから、この言葉を思い出したように思う。
文化祭で全員が委員長ポジションをやれるわけではない。
その人にしか出来ない、その人でないと意味が無い、というポジションが必ずあるものだ。適材適所だ。
そのポジションで受け身ではなくて、主体的に行動せよ、というのはあらゆる場面で言える事のように思う。
例え、もしも、やらされてると思ったとしても、そこを主体的に捉える。
それだけ得られる物は100倍違う。
「意味無いでしょ」と思っても、それは巡り巡って未来の自分に返ってくるものだ。
「あの時、これやっておいてよかったな。」進/研/ゼ/ミの法則かな。
そして、もしも、それをどうしても受け身に、否定して捉えてしまうのならば。
一つは、その人の性質かもしれない。
一つは、「休め」「違う」という信号なのかもしれない。
個々の特性なので、無理強いをしてはいけない。
ただ、何かが違うというのは、自分なり、周りが、ちゃんと把握しておかなければならない。そういったコミュニケーションは、何時だって大切だ。
誰しも迷う時もあるし、弱気になる時もある。
そういう時は、"文化祭"での自分のポジションを思い出してみるのは良いと思う。
委員長だったのか、裏方だったのか、演劇のヒロインだったのか、部活でステージを盛り上げたのか。
ポジションは何でもあるはずだ。そしてそれが、楽しかったのか、辛かったのか、主体的だったのか、受け身だったのか。
改めて振り返ってみると、「なんで?」が出てきて、平凡な過去も面白く見えてくる。
これからを楽しくするヒントは、実は過去の自分の中にあったりする。
そのポジションを繰り返したいのか。
憧れのあの人のポジションをやりたいのか。
それは自分次第なのだけれど、過去の自分よりも出来る事は多いはずだから、
「わぉ、こんなに成長したの!やるじゃん!!」
という小さな気付きから始めて見る事も良いと思う。
それが"続ける"に変わっていくのだから。
本当はやってもやらなくてもいいもの(創作)をやり続けるってそういうことだからね
— 日本橋ヨヲコ★10/12G戦完全版3発売 (@yowoko) 2016年10月6日
"やり続ける"という事は、そういう事なのかもしれない。
日本橋先生のツイートと過去の自分と対話して、私はまた、とある"文化祭"を動かす側に行きたいんだろうなと思った。
インカムを持てるように視野の広い状態でいたい。