誰のための言葉
その日、その時間、その場所で。
どんな出来事があるのか、誰と出会うかなんか、その時になってみないと分からない。久しぶりにそんな体験をした。
その日は、友人に貸していた漫画を返してもらいがてら、二人でご飯を食べていた。
カウンター席しか空いておらず、仕方ないか、と餃子をつつく。
会話が弾んで、お腹がいっぱいだな〜と思っていたら、たまたま隣の席に座った、シアトルから日本に旅行に来ていたアーティストのおばさま二人組と話す事になった。
そうなったきっかけは、
「さっき食べていた美味しそうな物は何?」
とおばさまが友人に話しかけてきたからだ。*1
友人は留学経験があるので、語学が堪能だ。
仕事で中国にも行くので、3ヶ国語を操れる彼女は、おばさまの質問にも流暢に返答する。
かという私は、根っからのボディランゲージ派で。
読み・聴きは出来るものの、書き・喋りはてんでダメだ。
ただ、話してみたいという気持ちは変わらないし、ヒアリングは昔から優れていて、相手が何を言わんとしてるのか分かってしまう。
なので、毎回、分かる単語を使いコミュニケーションを図ろうとしているのだ。*2
最初は、
「知らない土地に来て、外人が自分の母国語で喋ってきたら、誰だって嬉しいやん?」
みたいな精神で話を進める我々。
会話の中で、おばさまがアーティストだという事を知って、
名刺をいただいたり、「京都でこんな場所に行ってきたわ」と紹介*3していただいたり、「瀬戸内海の島や美術館を巡るアートな旅なのよ」と話していただいたり。
その中で凄くもどかしいと思う事があった。
「安藤忠雄」という単語が聞こえて、友人に問うたところ、「この近くにある安藤忠雄の建築を見に行ってきた」と話している事を教えてくれた。
私はこの夏に知った北山にある安藤忠雄設計の美術館がある事を教えたくて。
上手く話せそうにないから、見せたら早いだろうと思って、iPhoneを立ち上げてサイトを開こうとするが低速で開けない。
話して伝えようとしてみるんだけれど、上手く単語が出て来ず、結局は友人に伝えてもらったのだ。
「地下鉄に乗れば行けるよ〜」なんて、箸が入っていた紙袋にメモを書きながら。
もどかしい。もどかしい。
言いたい事、伝えたい事があるのに、自分の口から言えない。
なんて、もどかしい事なんだろう。
その後も教えたい場所や自分の情報を伝えたいのに、脳が英語脳に切り替わっていないのか、口から出てくる単語が乏しくて、結局は友人に話してもらう。
文法的な過去形や未来形もすっかり忘れていて...
「自分の口から、言葉にして発していかないと、どんどん抜け落ちていくなぁ。見ているだけじゃダメなんだなぁ。読めたり聞けたりしても言えなくちゃな。」
...なんて、友人とおばさま達の会話を聞きながら、ショックを受けつつ、そのように思ってしまう。
「知らない土地に来て、外人が自分の母国語で喋ってきたら、誰だって嬉しいやん?」
って思ったのは、自分の経験から基づくもので。
かつて訪れた異国で、日本語を聞いただけで、どれだけ胸が高鳴った事か。
単語やたどたどしい会話でも嬉しいのだけれど、流暢な会話にどれだけ救われたか。
それは目の前にいる外人さんでも同様の事で。
流暢に喋れたら、それだけでハードルは低くなるし、思い出にも残りやすい。嬉しくもなるし、良いものだったと、振り返って嚙みしめる事が出来る。
旅は偶然の出会いと気づきで、どんどん膨れ上がっていくものだなぁ、なんて。
帰り際に、友人に語学を学ぶ理由を尋ねたら、「死活問題だからだ」と答えてくれた。
友人は来年で中国出張が3年目に入るそうだが、英語が通じない事に危機感を覚えて、今も中国語を学んでいる。
ホテルや空港など、通じる場では通じるのだが、ビジネスでのやりとりなり、現地でのご飯事情なりは、やっぱり母国語である中国語で無いと通じない事もあるようで。
一歩間違えると死活問題に発展するため、自分の身を守るためにも学んでいるとの事だ。
なるほどな。
言葉は誰のためにあるんだろう。自分のためか。相手のためか。
私は今日の出来事を通して「相手の国の言葉で自分の考えをちゃんと伝えられたら素敵な事だな」と改めて思った。
いずれにしても、とても良い機会だった。話す機会を増やしていこう。