子から親へのサンタ業
小さい頃、サンタというものを信じていたし、
今でもサンタはいると思っている、
というか、サンタさんはグリーンランドにいるのだ。
先日のクリスマスは、おつかれさまでした。ゆっくりお休みください。
クリスマス近くになると、箱からツリーを出して、飾り付けをする。
サンタさんへの手紙を書いて、クリスマスイブはワクワクしながら寝る。
朝起きたらプレゼントを見つけて、包装を開ける。
クリスマス当日は、スポンジを焼いたり買ってきたりして、手作りのケーキを作って食べる。
...そんな幼少期だった。
思春期になると、そういった一連の動作はなくなる。
昼間は友達とワイワイ楽しんでいたり、時には全国模試をしていたり、時には画塾でひたすら絵を描いていたり。
夜になると、くたくたになって家に帰り、誰かが用意したケーキを食べる。
実家にいた時は、そういう過ごし方をしていた。
今回のクリスマスは、祝日と土日が被って3連休。
仕事は少し落ち着いているのでちゃんと3連休がとれた。
年末年始は、友人夫妻の元へ遊びに行くため、帰省はしない。
突出した予定も無かったので、早めの帰省と称して、クリスマスを実家で過ごす事に決めた。
クリスマスを実家で過ごすのは、家を出てから初めての事だ。8年ぶりだろうか。
「このメンバーでクリスマスを過ごすのも最後だろう。」
...なんて思った私は、親へのクリスマスプレゼントを購入する事にした。
宅配で送りつけるのも素っ気ないと思い、持ち運び出来て喜びそうな物を見繕う。実店舗で、自分の目で確かめて、「あぁ、これなら喜んでくれそうだ。」という物を選ぶ。
サンタ業なれば、欲しい物の手紙を受け取るなり、プレゼントをする相手からヒアリングをするなり、そういった事をしなければならないだろう。
けれども、我が家は本当に欲しい物は、自分の金で買ってしまう主義なので、誰かに取り分けて「これが欲しい」と明言する事は少ない。
そんな性質の一家ならば、毎日送る生活というサイクルの中の一部分として組み込まれやすい物を上げた方が、使ってもらえるし喜ばれるのだ。
こちらとしても飾って愛でられるより、生活を豊かに、彩りを与えられる物を購入する方が良い。
というわけで、父には、ほぼ毎日つけるネクタイを。
母には、花をモチーフにしたセット、普段使えるハンカチやガーデニングで使える物などを購入した。
プレゼントを購入して持ち帰る時、「どんな反応をするかなぁ」とワクワクしてしまう。足取りは軽やかになる。帰路につきながら、ふと思う。
「両親もかつて、私や弟に対して、こんな風に思いながら、プレゼントを買って帰っていたんだろうなぁ。」
親から子へのサンタ業、誕生日プレゼント、成人祝い。
親は子へ、たくさんの物を与えてくれる。
「この子はどんな反応をするかなぁ」、なんて思いながら。
「じゃあ、その逆があっても良いじゃない」、なんて思ったのは成人してからだ。
今まで貰ってきた物を少しでも良いから返していけるように。
返すというよりも、新しく与えられるように。
「あなた達の子どもは、こんなに大きくなったんだよ。」と親が知らない世界を少しでも与えられるように。
そう思って以来、年1で、父の日やら母の日やら誕生日やら、何かに理由をつけて贈り物をする事にした。
今回は積もり積もって年末のクリスマスだ。そういう機会でもなければ、素直に改まって物は渡せないようだ。
プレゼントを渡して、母は笑いながらプレゼントを開き、父はニヤつきながらネクタイを手に取った。
父は、もっと剽軽に反応するかと思ったけれど、案外無愛想。
「あれはお父さんなりに喜んでいるのよ」という何かの物語で出てくるようなテンプレートのような回答を母が言う。
私は、「じゃあ昔みたいにケーキ作るわ。使えそうな材料、何ある?足りない物、買いに行こうよ。」なんて二人を囃し立てる。
家にあったフルーツをベースにクリームを足して出来る範囲でケーキを作る。かつて、父親が買ってきたスポンジにクリームを塗ってフルーツを並べてケーキを作った、そんな思い出が蘇る。
相変わらず過ぎて、それが心地良くて、ただ何をするわけでもなく、のんびりした3連休を過ごせた。良い悪いではない。ただ自分のスイッチがオフになっても受け入れてくれる環境は、とても大切なのだ、と。
最初で最後になるだろうな子から親へのサンタ業は、そんな当たり前の事を思い出させてくれた。大切な物事ほど、ふとした日常の中にあるものだという事を。
後何回、同じ時を過ごせるだろうか。
そう思うからこそ、一緒にいられる時間は、何をするわけでもないが、大切にしていきたいものだ。