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見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

波を整える

自慢じゃないけど波持ちの人間である。
これは、病気と診断されたとかじゃなくて、昔からの性質で、逃れられない性質で、上手くコントロールしていかないといけない性質で。

そんな性質の私は、昔から、もう1人の自分を常に同居させている。
これも、病気と診断されたとかじゃなくて、昔からいて、「まぁまぁ落ち着け」と宥めてくれて、時には入れ替わって演じてくれる、今より中性的で中立な自分。

で、今までは、そんなもう1人に頼りきって、本来の自分をずっと甘やかしていた。

「波があるから仕方ない。」
「もう1人がいるから、”私”は引っ込んでいれば大丈夫。上手くやってくれている。」

何かと理由をつけて、自身の成長を止めていた。

 

 

今から4年ほど前か。
私は、もう1人に頼らなくなった。いや、頼れなくなった。
もう1人の自分が突如いなくなったのだ。
いろんな変化の中で、もう1人を生み出す余裕が無くなった。つまり、リミッターが外れた。

そこから先は、てんやわんやで、こんなに感情の起伏が激しいのか、と振り返っては自責の念にかられる。
すっと後ろを振り返ると笑い話が転がっていて「ははは。もう申し訳ない。」と苦笑いをして懺悔する。

ただ、その中で、本来の”私”は確実に成長していった。
たくさんのことを経験し、純粋なまま育った心は、打ち砕かれてもその純粋さを保っている。
自分ごとながら、腐るでも恨むでもなく、ありのままを受け止められる精神があったのは、ずっと何かに守られていたように思う。根っこも心も、結局はいつまでも10代のあの景色のままなのだ。
“私”は、”私”として、少しずつ階段を昇り始めた。
揉まれながらも何しながらも歩むことをやめないと、そう決めたのだ。

波が起こっても、その波を無理に抑えようとするんじゃなくて、乗るように寄り添う。
だんだんと波が整っていった。
この感覚に気付けてきたのは、ここ1年の話。ようやく世界が開けてきた。


波が整ってきた先にもう1人の姿が見えてきたが、私は助けを求めなかった。


「もう、ちゃんと。歩けてるよ。」

そうやってニカッっと笑ってみせると、もう1人は、

「じゃあ、もう大丈夫だ。いつでも見てるから。」

そうやって微笑を浮かべていた。

 

半分は溶け合って、半分は自己を保つ。
自分を客観視して、律する存在は、やはり必要なんだ。

 

 

おかげさまで私は立てている。
自身の成長と共にたくさんの人を巻き込みながら。
それも含め、私はこの波を乗りこなして、還元していきたいのだ。

周りがそう思ってくれているように
私も本来自分が成すべき役割をそう望んでいる。