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見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

呪 to 祝

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先日、「シンプルな呪い」という展覧会のDMをいただいた。

 
このDMは、手に取らないと分からない良さがある。
口偏は裏側にあったり、特殊加工が施されていたり。
是非お手元で見る機会があれば◎
 
DMとサイトを見て、
「呪」という文字を分解しているところが良いなぁと思った。
 
 
〜〜〜
 
 
さて。「呪」という文字をどう捉えるか。
 
私は、文字を見ると、その文字の意味や成り立ちを見てしまう。
それは、両親の職業柄、実家にやたら漢字辞典がたくさんあるわけで。
幼少期から自然に、特に何をするわけでもなく、パラパラと辞典を捲っていたり、誰に言われたわけでもないけれど、字体の歴史を勝手に自由研究していたわけで。
 
どうも。「隷書を覚えたい」と父親に言ったら跳ね除けられた小学生でした。
「やるなら甲骨文字の方が面白いで?」と言われた記憶は今でも忘れられません。
でも未だに直接習った事はない。
 
そうなってしまったきっかけになったのは、白川静さんの本だろうと思っていたのだけれど、記憶をうにょうにょと辿ってみると、下村昇さんの本であった。
 
下村式 唱えておぼえる漢字の本 1年生

下村式 唱えておぼえる漢字の本 1年生

 

可愛い小人さんが解説してくれるこの本は、1-6年生まである。
10歳ぐらいで読み切っていた記憶がある。

 
 
 
話は戻り。
 
「呪」は「口」偏と「兄」で成り立つ文字。
 
思い立ってこの文章を書こうと思って検索してみる。
まとまってるのは、この記事かな。なので、どうぞ。

 
これを読んで、「呪」と「祝」は同じグループだったな、という事を思い出す。
良い意味だと「祝」。悪い意味だと「呪」。
でもどちらも「祈る」という行為には変わらない。
長い歴史の中で良い悪いに分別されてしまったのだ。
ただ最初は、些細な「祈り」だったかもしれないのに、良い悪いに。
 
ちなみに「呪い」は、「のろい」とも読めるし、「まじない」とも読める。
「おまじない」といえば、お願いだったり、良いイメージが強い。
「呪」の文字、一つとっても、物事には、良いも悪いも、両方含まれているんだな、という事に気づかされる。
 
悪いことより、良いことが多い方が良いのだけど、
まぁふとした拍子に悪いことは起こってしまう。
それをプラスにとるか、マイナスにとるかは、
その時々の心の動き方次第なのだけれど、
「呪」にしろ、「祝」にしろ、エネルギーを使う文字だなぁ、と思ってしまったのだ。
 
いや〜くわばらくわばら。
 
 
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先日の3連休に「祝」う機会があった。
お花は帰りにいただいた。なんならチュッパチャップスのブーケがビンゴで当たったけれど、7歳男児に譲渡した。
披露宴から出てる組に寄ると、ブーケトス無かったから、これがブーケらしい。やった…ね?
 
その二人が最初に出会うきっかけの場にいた人間としては、二人が育んできた年月が愛おしいし、今後とも手を取り合って協力して楽しい家庭を築くんだろうな、と思うと物凄く嬉しかった。「幸せのお裾分け」という言葉に相応しい空間であった。
 
タイムリープした18歳の私がその場にいたら、目を丸くさせて動揺して、魂が抜き出ていただろう。そして現在の私が介抱する。
そんな妄想が出来るぐらいの衝撃と幸せのなんたるか、である。
二人とも、それぞれから、また二人から、いろいろとお世話になっているので、心の底から良かったと。
私の大学4年間は、正直この二人抜きでは語れないポイントもあるので。
この時計を見ると、全てのきっかけが思い出されるものだ。
 
「今後も機会があればまたよろしくね」と囁かに「祈る」。
この「祈り」は、「祝」と「呪」かもしれない。もちろん良い方の意味合いで。
 
 
〜〜〜
 
 
もっと他に書きたい内容や途中止めになっていて、自分自身に「早く続きを書いてよ〜」と言いたい文章があるけれど、何故か、この文章を書いてしまった。
 
とりあえず先日読み切った「〆切本」が良過ぎたので、感想文でも書こうかと思ってるのだけれど、それもまだ脳内でうにょうにょしていて、3割ほどしかまとめてない。
ちなみにこの「〆切本」の冒頭に、白川静さんの解説が載ってたりするので、文字好きにはたまらない始まり方だった。
〆切本

〆切本