"関係"
予定と予定の間の時間、友人達と本屋に寄る事になった。ちょうど本屋や本の話をしていたし、ちょっとした時間を本を読みながら各々潰すのは良い事だねと。
私は、暮しの手帖の最新号を手に取り、パラパラと捲る。
その中で伊藤守さんの「ごきげんでいたいから ③関係」というエッセイが不意に突き刺さった。見開きのエッセイだ。もし機会があれば読んでいただきたい。
「関わり」から自分を切り離して見つけようとしても、きっと見つからないんです。なぜなら「自分」とか「私」は、「関わり」の中に存在しているからだと思います。だから、「関わり」や「関わり方」が変わったら、自分や相手も変わって見えるかもしれません。
この数年の自分の事のように思えて、ハッとして、グッときているのだ。そしてそれを見直すフェーズである。タイムリーなもののように感じている。ここに残しておく。
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後の予定。お肉を食べるという、遅めの新年会だった。
メンバーは、京都界隈のWEB,IT系の同世代メンバー。主催者の私からすると、大学時代から仲の良いフットワークの軽い後輩+社会人になってから出来た友達だ。でもそれぞれからすると、「ぁ、はじめまして。」な場面も多く、主催者からすると「あれ、ごめん。こことここ、まだ会った事なかったっけ?!」って。
私はそれぞれとの"関係"があるはずなのに、今日から始まる"関係"というのもあるんだよな、と先のエッセイを読んだからこそ、妙に意識してしまった。
そして、彼女、彼らとの「関わり」は続いてきたものでもあり、「関わり方」は少しずつ各々のステージで変わっていくんだよな、と、ふと意識してしまった。
ひとまずはお肉が食べれて良かった。来てくれて改めてありがとう。
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先の予定。平成元年生まれ同い年の女4人でお寺で坐禅をしてきた。
何で盛り上がったかは忘れたけど、あれよあれよと言う間に4人になる。メンバーの内、1人は体験した事があり、じゃあこの日に行こうかと。メンバーの内、2人は、先日の勉強会に一緒に行っていたので、3人で「先日ぶりだね〜仏教づいてるね〜」なんて言ってしまう。*1
体験前に住職さんが下記のように話していて、ふむふむとなる。
坐禅には、二種類の文字がある。「坐」と「座」。「广」は屋根をあらわすものです。
坐禅体験は初めてで、無になろうとしてもなりきれない。落ちそうになる、留まりそうになる。そうではなく、現在を意識して、無になる。たゆたう流れに身を任せる葉のようだ。
呼吸を整えても、どうにもならないな〜というタイミングで、住職さんに木の棒で叩いてもらうことにした。警策だ。今回の体験は自己申告制。叩いてもらいたいタイミングで合掌をする。それを見た住職さんが叩く。
体験する前は叩いてもらう事を恥ずかしいと思っていたけれど、そうじゃないな、と思う。ある種の手助けだ。また頑張って向き合おうというための、ヘルプだ。
叩いてもらって、またその事が良く分かるのだ。1人で内に入ってしまっては、どうしようもない事も世の中にはあるんだなぁ、と。強くないという事を認める事も、また強さになるんだろうと思ったのだった。
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移動する道中で梅の花を見つける。春が始まっていた。もうすぐ本格的な春が来る。
相手も変えない、自分も変えない。けれども、お互いの中にある「関係」は、一緒に創っていけるものではないか?それは、「好き嫌い」や「合う合わない」を超えて創ることができるものなのではないか?そう思うのです。私は、全ての「関係」を見直してみました。また、これから出会う人たちと、どんな「関係」を創るのか? そういうことを自分に問いかけてみたのです。
正しい関係の在り方というものはありませんから、自分に問いかけたり、人に問いかけたりして、自分なりの答えを見つけるのがいいと思います。
「誰とどんな関係を創ろうか?」
「色や形、温度、表情、何を一緒に見つけるか?」
など、ぜひいろいろと考えてみてください。
伊藤守さんは、今日初めて知ったのだが、コーチングを生業としている事もあるのか、読んでいくと励まされるような文章だなぁ、という印象だ。
今、自分を見直す作業をしていて、改善する道筋を導くための作業をしている。多忙な中だからこそ、ぶっ込んでいる。Mっ気があるな、って思う。でもね、ドMじゃない。多少の出血はあんまり気にしてないけど、やっぱり抉るような出血はしんどい。鈍いのか出血して、1Lぐらい血を流して、「あぁ〜すみません。やっぱりしんどいですわ〜〜〜。」と言っていたのが、今までの私だ。このままだと、そろそろ本当に死んでしまう。苦笑
なので、その、しんどさをどうにかすべく、敢えてのしんどい作業を"関係"の力を借りて糸口を見つけ出そうとしている。
そして、最終的に、自分なりの答えを見つける。最後は自分だ。だからこそ、この"関係"を生かして変わりたい。「関わり」の中で、「私」という自分なりの答えを日々探していく。それが積み重なり人は生きる。人生となるようだ。