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見聞きして考えた事を綴ってます。趣味です。

ちょっとしたボタンの掛け違い

それから、ちょっとしたボタンの掛け違えがあれば出会えなかった多くの方々。
本当に多くの人々に出会い、それぞれの美しい物語の断片に触れました。すべてぼくには、大切な物語です。これらを編みあげるためには、ゆっくり咀嚼する時が必要ですが、また新たな物語として、みなさんにお届けしたいです:)


ボタンはきっちりと留めるもの。
でもたまに、ボーッとしてたり、焦ってしまって物事を進めると、掛け違ってしまう。
それは大概は、ネガティブに捉え、時に悪い方向となる事が多い。
「ボタンは掛け違えない方が良いものだ。」
それは物事の根底に流れる1つの筋のようにも思う。正論だ。

 

だけれども、その人は今回の掛け違いをとてもポジティブにまとめ、またその掛け違いの1人となった私自身も、「そうそう。こういう掛け違いが、私は、とっても大好きなんだよね。」って。
私はやはり、少しズレていて、その歪みに楽しさを見出して生きてるようだ。

 


ボタンを掛け違えるためには、
たくさんの"if"が
多くの行動が
少しの時間が
そこには必要だ。
層は積み重なり、パーツは増えていく。

 

必ずしも同じ物など1つもない。
整然とされた物事はもちろん美しい。ホワイトキューブに、キャンバスに、羅列された直線はとても綺麗だ。それも一つの好きな世界である。
それでも私は同じ物より、そこでしか出会えない、見れない何かが大好きで、愛すべきものの様に思っている。
直線にリズムや動きが生まれる。強弱がついた直線は、美しいとは思わないかもしれないけれど、面白いな、楽しそうだな、と感じる。そこに+αの美しさを感じる線を書ける人は、身近なところで言うと私の父親で。自身の根幹にある私なりの美意識や観る目は、父親を通して養われてしまったのかなぁ、なんてこれを綴りながら思う。


話を戻そう。


パーツが増えるということは、

掛け違えも増えるという事
組み合わせを間違える事もあるという事
配合を間違えるという事
出す手札を間違えるという事
持っている事に満足なり安心を感じてしまい動きが鈍るという事

そんなマイナスな部分もあれば

掛け違えから生まれる新たな発見もあるという事
上手い組み合わせで最適解を出せるという事
配合次第で爆発的な物を生み出せるという事
切り札を持っているという事
持っているからこそ動ける事があるという事

そういったプラスな部分もあるのだ。

パーツを1つ持ったら、表も裏も、良さも悪さも、自分なりに消化しなければいけない。相手に委ねるのではなく、それを持っているのは、自分自身なんだから、自分で考えないと。妄想でもなんでもさ、その方が面白い。
なんて思う。

 


人より、たくさんのボタンの掛け違いをしてきた。
そこで生まれた何かも多く、そこで失った何かも多い。

今回の掛け違えで、私は憧れだった人と気負いせずに話せるようになったのだ、と思う。原点になった人達の最後の人に会えたのだ。
それぞれの形で。それぞれのコミュニケーションを。今もとっている。

 

2011年、6年前の私。
びっくりでしょ。まさか私もこんな形で出会うと思ってなかったよ。
ただの好奇心で行っただけなのに。

そう思うと私のフットワークの軽さは、自分自身で認めてあげるべきな、1つの良さ、なんだろう。ようやく自覚出来た。

 

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掛け違えは、何かを気づかせて、何かを失わせている。
私は気付いたけれど、おそらくまた何かが失落したんだろう。
そうだとしても、この掛け違いは素敵な出来事であったと、改めてここに綴っておきたかったのだ。

 

春の足音が聞こえる。花粉が舞っている。くしゃみが止まらない。
暖かな日差しが照らす。頭の回転も落ち着いてくる。
何かしらの凍土がなんらかの形で溶けていく。
出会いと別れの季節が、またやってきたのだ。

くすぶりの沼

 いろいろ思う事もあるけど

抽象された絵空事に捉われるな

自分が手に持っているオールの使い方を考えろ

足場となっている素材を知れ

どんな場にいる?現実を見ろ

 

じゃあ次の一手をどうするか

それは全部自分次第

全部

 

こういった思考になってから

過去と現在の自分と対話して

未来のためにどんな一手を積み重ねていくか

という話が出来る人に出会えた

嬉しい限り

 

誰でも沼に入る

誰かに手を差し伸べてもらう事が出来る

それでも結局は自分次第だ

本当に最後は

自分がどうしたいかだ

やるだけ

「知る」「知らない」の世界では既にない

「やる」「やらない」の世界

今の世界に抗うのでなく

身を委ねながら実行していくだけなんだ

"「ドメインを買う」というのは、「インターネットに住所をもつ」という事じゃない?"

目の前のその人が言うのは、かつて誰かに言われたような事だった。

その人は、「tofubeatsの記事を読んで、そう思い立ってさ、買ったんだよね。」と言っていたが、私は尊敬していた兄貴分のような東京のクリエイター先生に言われた事だったのだ。

無から有を生み出すような人達は、似たような事を言うのだ、とその瞬間思った。

 

*****

 

私がドメイン買ったのは、2010年だか、2011年だかの事で。
おそらくfacebookを始めて数ヶ月後かどうかだったと記憶している。

去年数ヶ月失効してしまったが、取り戻したので、ずっとこのドメインを使っている。

今は、どこのサーバーにもサービスにも連携してなくて、少しだけ宙に浮いた状態だ。*1

 

 

それまでは、いろんなサービスを利用して自分の場を持っていた。

「kuraruk」というのは、twitterを始める際に使い始めたアカウントで。以降は、全てこのアカウント。以前は、というと、過去を辿ると小学5,6年生の話のようだ。

私は、昔も今も未来も、インターネットに、少しずつ自分の場を作る。

 

 

目の前のその人に聞いた。

「既存のサービスではなく、何故ドメインを?」

「既存のサービスも良いんだけどね。自分の家が欲しかったんだ。既存のサービスは、言わば賃貸住宅。ドメインを手に入れる事で私の家を建てたかったんだよね。」

その言葉を聞いて、ドメインを購入した当初の気持ちが蘇る。

 

*****

 

私がドメインを買った理由は、自分の作品・活動をまとめたポートフォリオを作りたかったからだ。

大学生だった当時、就活目的で作成していた。

最初はFlashで作っていたが、時代の流れと共に、wordpressを導入して、htmlとcssを組んで、誰にも指摘されるわけじゃないから、自分がやりたいようにデザインして。。。

なんて。

就活目的ではあったが、自分の場を作る事は楽しかった。自分だけの創作の時間に没頭する事は何時だって楽しい。楽しいという気持ちは、忘れてはいけないのだ。

 

 

ドメインとサーバーを失効した際に、私の場は、更地に戻った。

データのバックアップは適度にあったし、そこまで更新をしていたわけでもなかった。

ただ、今までそこにあったものがなくなるのは、寂しいな。やっぱり。

 

 

ドメインを復活させた際に、いろいろと構想をしていて。

「簡単なもので良い。このブログのRSSを取得して、Ajaxでサイトに紐付けて呼び出す事ぐらいなら行けるでしょう。」

とかとか。

 

本来ならば2月末に公開する予定だった。

ついでに言うと作りたかったブログテーマがある。

しかし、業務の忙しさに感けて、自分の場を作る事を疎かにしていたのだ。

それが出来ない仕事量だった、という事もある。

うん。そうなんだけどさ。結局、そんなの言い訳に過ぎないんだ。

 

この行動は日常生活を送る私自身と何一つ変わっていない。

私は結局、自分の事を大事に出来ていないのだな、なんて改めて自覚している。

人間性を捧げられる人間でいたかった。私は、何本かネジが欠落している自覚はあるけど、やっぱり人間性を捧げる事は無理なんだなぁ。とはいえど、人間らしくなれるか、と言われると足りてない部分があるんだよなぁ。

なんて。

 

*****

 

私がこのブログを始めたのには、

自分の場に閉じこもるんじゃなくて、少しだけ開かれた賃貸住宅で、自分にも誰かにも見てもらえる場を作りたかったからのように思っている。

ブログを書く理由は、だいたい未来の自分に向けてで、たまに不特定多数の誰かだ。

そして、この場を消すのも余程の理由がない限り、しないだろうな〜なんて気持ち。

媒体を変えずにこうして1年以上、続いた。

 

続いた。それだけで素敵な事だ。

長く使えるものを使いたい。でも新しい物事を生み出したい。

それが私の根幹なのかもしれないな、と、この文章を綴りながら思ったのだ。

それに気づいただけでも良いんだよ。

人は気づいて失っていく。

気づいた事を幸せだと思おう。教えられた事を幸せだと思おう。

それだけできっと世界は優しくなるはずだから。

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*1: って言ってたら、地に足着いてないのも気持ち悪いので、取り急ぎのtumblrに連結したのであった( ˘ω˘)