風紋
「風紋」という言葉は、この土地で過ごした身としては聞き慣れた言葉であった。
が、あまり実物を見る事は無い。
小中学校の近くに立つ大学の大学祭。
鉄板焼き屋の名前。
広報誌や学級通信の名称。
日常に「風紋」はあった。
しかし、実物は現地まで行かなければ、見る事はない。
鳥取砂丘なんて、地元に住んでいたとしても、そう易々と行くようなところではないのだ。
久しぶりに「風紋」の姿を見る。
その姿を見て、なんだか私は感心していた。ポツリと呟く。
「風は遊ぶかのように模様を作るのだなぁ。」
嵐の翌日の砂丘は、
心地良いサラッとした風と日本海から吹きつける悪戯な潮風が駆け巡る。
二つの異なる風は、舞い遊ぶかのように大地を駆け、自然のうねりを、
残していく。記していく。刻んでいく。描いていく。
「二度は無いよ。これは、今、この瞬間だから出来るんだ。だからこそ、遊んでいる。」
そう言っているかのように、カメラを持つ私の身に、砂を打ちつける。
馬の背*1からシャッターをきる私に。
体勢を変えたとて、彼らは無邪気に大地を駆け巡っているのだ。
私は首から下げたカメラを、右肩から斜めに掛け直した。
なんだかカメラを構えているのが阿呆らしくなってきたのだ。
砂つぶがついたカメラを手元で軽く抱えながら、馬の背から、少し小走りで駆け降りる。
「そうそう。そんな調子!」
「良い感じじゃん!」
そうやって風達に言われているような気がして、ハッと気がつく。
より広大な景色が目の前に広がっていた。
何も無い場所には、何かがあるようだ。
*1:砂丘の一番高い場所。馬の背中のような起伏があるため、そう呼ばれている。
2017.06.02 Tottori Sand Dune
実家に帰った際に、京都の友人に一眼レフのカメラを借りてから帰った。
鳥取で撮りたいものを撮った後、時間が出来たので、ここはやっぱり鳥取砂丘へ。
- Canon EOS Kiss X7 -
錆びついた弟の自転車を無理やり蹴っ飛ばして、やってきた砂丘。
今回、植田正治リスペクトということで白黒加工してしまったけど、
嵐の後の砂丘には、オアシスがあり、
心地よくも激しい日本海の風が吹き、海に近づけず、
天気は良かったものの暑くはなかったので、
過ごしやすい状態で写真を撮る事が出来た。
帰ってから、親に行って写真を撮った旨を伝えると、
「ん?!自転車で行っただか?すごいじゃん。鳥取の子じゃ、ないなぁ。」
なんて。
小学生の頃、5月に春の運動会があって。
馬の背を登ってを嫌々登ってから、
ビーチフラッグをしたり、リレー走やら、松林に行って松ぼっくりを拾ってチームで競ったり、
そんな運動会。
運動音痴の私としては楽しめなくて、少し苦痛だった砂丘。
風が吹くと砂嵐が襲ってきて痛い。
砂に足がとられて、前に動かない。
どんどん疲労が蓄積される。
今回の砂丘もそんな感じだったけど、
「おぅおぅ。久しぶりだとこんな姿だったけな。それもまた良いんじゃないかな。君は広くて雄大だよ。」
なんて。身体を襲う砂嵐は痛かったけど、優しい気持ちで見れた。痛かったけど。
ふるさとにこういう場所があって良かったと思う。
「ふるさと」の作曲家・岡野貞一は鳥取出身で、近所の久松公園に石碑が建っている。
曲を作ったのも分かるような。
たしかに、忘れがたきふるさと、なのだから。
諦めは本当に諦めてるのか
いろんな人のターニングポイントを聞くと
私の中で蓋をしていた「諦め」達がうごうごと蠢く。
私の中で「諦め」ていた大きな物事といえば、”留学”だ。
漠然と”留学”したい欲しかなく、言語能力の適正、学びたい分野は、未だに不透明だ。
ただ日本と違う土地で、いろんな価値観を知り、改めて自国の文化を見直したいし、いろんな人達と話してみたい。
そういった軸しかないのだ。
「諦め」が復活したのは、友達や知り合いが年内に海外移住を相次いで決めている事や、たまたま居合わせた席で聴いたこの話。
「私の母親は、15年前に離婚したんです。
彼女は当時40代だったんですけど、縁もゆかりもない国に行って。
そのまま移住して、向こうでパートナーも見つけて。
今は日本向けのビジネスをしているんですよ。
母親は専業主婦で、英語も何も出来なかったのに。
人って何歳になってもやろうと思えば出来るんですよね。
『ワーホリに行っておけば良かった。』と言ってる人達を何人も見ています。
口だけになってしまうなんてつまらない。
だから、私も年内に行こうと思ってるんです。」
なんて。ブラック企業で働いてて年始からニート生活をしている彼女は目をキラキラさせて言った。その言葉は、心臓をギュッと掴んだ。
そうだなぁ、そうだよなぁ。
って。
とは言いつつ、私は腰が重い人間だ。
すぐに行動する気はないし、まだやらなきゃいけない事がある。
ただタイムリミットがあるのも知ってるから、それまでに色々考えて、掴むべきものを掴んで良いのかな、なんて思う。
別に1年行くのが良いだなんて思ってない。私は数ヶ月短期集中の方が性に合ってるだろう。飽きたら場所がどこであれ、意味がない。
同じ人生などないし、ロールモデルがいないなら、自分の人生を送るべきだ、なんて。
風潮は飽きた、少しスピードが速い。から世界の真実が知りたい。
誰もが知ってるものなんか良いんだ、その仕組みが、裏側が知りたい。
そういう風にも思うんだ。
なんて。
最近改めて思い直したのは、出来合い作品だけでなく、そこに至るまでの過程や思考が大好き過ぎる。
だからこそ、作り手の現場が好きだし、ものを作る人達が好きだ。
日向が格別なのではなく、真に向けるスポットライトは日陰だね。
なんて。ね。
足枷になっているのは自分の過去だ。他はない。
掴める両手があるのなら、掴んでみた方が絶対楽しい。
知らないものにワクワク出来る人生でありたい。