ハロー日常
過去の自分が思い描いていた未来を、今の自分は実現しているんだ。
そうだ、2017年が始まった。」
誰のための言葉
その日、その時間、その場所で。
どんな出来事があるのか、誰と出会うかなんか、その時になってみないと分からない。久しぶりにそんな体験をした。
その日は、友人に貸していた漫画を返してもらいがてら、二人でご飯を食べていた。
カウンター席しか空いておらず、仕方ないか、と餃子をつつく。
会話が弾んで、お腹がいっぱいだな〜と思っていたら、たまたま隣の席に座った、シアトルから日本に旅行に来ていたアーティストのおばさま二人組と話す事になった。
そうなったきっかけは、
「さっき食べていた美味しそうな物は何?」
とおばさまが友人に話しかけてきたからだ。*1
友人は留学経験があるので、語学が堪能だ。
仕事で中国にも行くので、3ヶ国語を操れる彼女は、おばさまの質問にも流暢に返答する。
かという私は、根っからのボディランゲージ派で。
読み・聴きは出来るものの、書き・喋りはてんでダメだ。
ただ、話してみたいという気持ちは変わらないし、ヒアリングは昔から優れていて、相手が何を言わんとしてるのか分かってしまう。
なので、毎回、分かる単語を使いコミュニケーションを図ろうとしているのだ。*2
最初は、
「知らない土地に来て、外人が自分の母国語で喋ってきたら、誰だって嬉しいやん?」
みたいな精神で話を進める我々。
会話の中で、おばさまがアーティストだという事を知って、
名刺をいただいたり、「京都でこんな場所に行ってきたわ」と紹介*3していただいたり、「瀬戸内海の島や美術館を巡るアートな旅なのよ」と話していただいたり。
その中で凄くもどかしいと思う事があった。
「安藤忠雄」という単語が聞こえて、友人に問うたところ、「この近くにある安藤忠雄の建築を見に行ってきた」と話している事を教えてくれた。
私はこの夏に知った北山にある安藤忠雄設計の美術館がある事を教えたくて。
上手く話せそうにないから、見せたら早いだろうと思って、iPhoneを立ち上げてサイトを開こうとするが低速で開けない。
話して伝えようとしてみるんだけれど、上手く単語が出て来ず、結局は友人に伝えてもらったのだ。
「地下鉄に乗れば行けるよ〜」なんて、箸が入っていた紙袋にメモを書きながら。
もどかしい。もどかしい。
言いたい事、伝えたい事があるのに、自分の口から言えない。
なんて、もどかしい事なんだろう。
その後も教えたい場所や自分の情報を伝えたいのに、脳が英語脳に切り替わっていないのか、口から出てくる単語が乏しくて、結局は友人に話してもらう。
文法的な過去形や未来形もすっかり忘れていて...
「自分の口から、言葉にして発していかないと、どんどん抜け落ちていくなぁ。見ているだけじゃダメなんだなぁ。読めたり聞けたりしても言えなくちゃな。」
...なんて、友人とおばさま達の会話を聞きながら、ショックを受けつつ、そのように思ってしまう。
「知らない土地に来て、外人が自分の母国語で喋ってきたら、誰だって嬉しいやん?」
って思ったのは、自分の経験から基づくもので。
かつて訪れた異国で、日本語を聞いただけで、どれだけ胸が高鳴った事か。
単語やたどたどしい会話でも嬉しいのだけれど、流暢な会話にどれだけ救われたか。
それは目の前にいる外人さんでも同様の事で。
流暢に喋れたら、それだけでハードルは低くなるし、思い出にも残りやすい。嬉しくもなるし、良いものだったと、振り返って嚙みしめる事が出来る。
旅は偶然の出会いと気づきで、どんどん膨れ上がっていくものだなぁ、なんて。
帰り際に、友人に語学を学ぶ理由を尋ねたら、「死活問題だからだ」と答えてくれた。
友人は来年で中国出張が3年目に入るそうだが、英語が通じない事に危機感を覚えて、今も中国語を学んでいる。
ホテルや空港など、通じる場では通じるのだが、ビジネスでのやりとりなり、現地でのご飯事情なりは、やっぱり母国語である中国語で無いと通じない事もあるようで。
一歩間違えると死活問題に発展するため、自分の身を守るためにも学んでいるとの事だ。
なるほどな。
言葉は誰のためにあるんだろう。自分のためか。相手のためか。
私は今日の出来事を通して「相手の国の言葉で自分の考えをちゃんと伝えられたら素敵な事だな」と改めて思った。
いずれにしても、とても良い機会だった。話す機会を増やしていこう。
それでも生きる / 「この世界の片隅に」を観た
はじめに
見て感じた事や気付き、個人的な感想を連ねているので、ネタバレを含みます。
相変わらず長文です。ふふふ。
今年は映画館に足を運ぶ度に「劇場で観て良かったなぁ」と思う映画を数多く観れた年でしたが、話題の新作の中では今年一だったように思います。
原作未読で先に映画を見ましたが、
原作を読んで、また劇場に足を運んで、この世界に会いたい。
そんな作品です。
一人でも多く、劇場に足を運んで、この作品に触れて欲しい。
そこに"すずさん"がいた
二次元作品、劇場アニメ、そんな枠組みを取っ払って、"すずさん"がそこにいた。
表情豊かで愛らしい普通の人々が送る日常を私達は見ていた。
ただそれだけの時間だった。
絶妙なキャスティングというか、能年玲奈さん、もとい「のん」さんは、"すずさん"だった。彼女の存在があの世界により引き込んだ。そう思う。
「いつもぼーっとしてるけぇ」と冒頭で彼女は言う。
そんな事は言いなさんな。あんたは、そこにおりんさるよ。
「それでも生きる」
私がこの映画を一言で表現するなら、これだ。
この映画のベースには、「戦争」という時代背景がある。
起こってしまった歴史を私達は知っている。この作品に触れる前から教科書や何かで、起こりうる可能性や起こってしまった事実を。
そんな出来事は、当たり前の様に劇中でも描かれる。
辛い。分かっているからこそ辛い。
もう起こってしまって戻れない。分かってる。
だからこそ、受け入れて、それでも生きる。
「戦争」という世の中で私達は生きてはいないけれど、誰しもそういう状況はあると思う。戻れない辛い状況を体験したことのないハッピーな人間がいるとしたら手放しで褒めたい。
「それでも生きる」という強さや希望をこの映画から貰った。
命ある限り続いていく。私達はまだまだ生きていけるのだ。
「かく」という愛おしさ
"すずさん"という人は「描く」事が好きな人だ。
それは劇中を通して随所に散りばめられた要素。
絵画的な表現も数多く見られ、もちろん随所で「描い」ている。
「描く」に限定するのではなく、作中では「かく」という行為にフォーカスが当たっている。
かく は「書く」「描く」「欠く」「掻く」と引っ掻く、壊し傷つける、区切ることをである。
「書く―言葉・文字・書」 - 石川九楊
私は劇中にその要素がすべて詰まっていたように思う。
右手を失った”すずさん”から「かく」という行為がなくなったわけではない。
彼女はそれでも「かい」ていた。いろんな思いを含めながら。
どんな思いがあるにせよ、私は、自分が好きな「かく」という行為に、嘘をついてはいけないと思った。
好きなら「かけ」ば良い。それが自分を伝えるための一つでもある。
自然と出来ている物事がその人らしさなのだ、と画面からひしひしと伝わる。
家について真っ先にナイフを取り出して鉛筆を削る。
久しくやっていなかった行為がこんなに愛おしいものだったか。
普通に「かく」事が出来る手を鈍らせてはいけない。
テンポと情報量と
『この世界の片隅に』を、まだ反芻している。いまさら思ったのだけれど、目のふちが濡れたくらいのことはあったかもしれないが、ぼくはこの映画で泣いてない。泣いて、感情の海に浸かってしまったら次のシーンが見られなくなる。そんな気持ちもあったし、泣かせるための「間」も用意してなかった。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2016年12月1日
見る前に糸井さんのこのツイートを見て、「自分はどうなるのかなぁ」、なんて軽々しく思っていた。
正直なところ、まさにこの状態。劇中で泣いてはいけない。「間」。
作品は約2時間。120分。
そんなに時が経った様に思えなかった。
この物語から一秒たりとも目が離せなかった。釘付けだった。
「かく」にフォーカスを当てているためか、絵画的な表現が散りばめられた遊び心のある画面。
コトリンゴさんが担当した伸びやかで澄み渡るような音楽。
表情豊かで愛らしいキャラクター達。
リズミカルに物事が運ばれる。流れるように。
映像なのに、自分で本を捲っていくような感覚だ。
どんどん、どんどん、ページが進む。もっと読んでくれと言っているように。
押しつけがましくない、と個人的には感じた。なんだかあっさりしているような。そんな。
そんな時間を過ごして、やっとエンドロールで涙を流す。
泣いてしまって、感情の海に飲み込まれると、この世界を味わえないような気がしたから。
エンドロールが流れた瞬間、「よ〜し、もう泣いていいよーっ。」と脳内の自分がGoサインを出したかのような。そんな。
劇場がブラックアウトした時、作品への没入モードが終わる。
「現実」に引き戻される。
脳に溜め込まれた情報量の多さを目の当たりにした。何をどう、咀嚼するのか。
終わった後の余韻
エンドロールが終わって、立つ事が出来なかった。
整理が出来なくて放心状態。深く息を吸い込む。吐く。深呼吸は大事。
腰が重いのかな?足に力が入らないのかな?
そんな事も分からなくなるような感覚。
私は完全に、作品に"持って行かれていた"のだ。
「現在」という時間に自分を戻すのに必死だった。
一緒に時を過ごした友人達と私は、四者四様の行動をとる。
泣きながら歩みを進めたり、
飲み物を一気に飲み干したり、、
立ち尽くしながらスクリーンを呆然と見たり、、、
私は一呼吸おいて、ようやく立つ事が出来た。
言葉にしようと思うけど、自分の中でどの部分を切り取って言葉を発すれば良いのやら。すぐに言語化出来るほど優れた頭ではない。
呆然と歩みを進めながら、誰かが言う。
「いや〜今日は誘ってくれてありがとう。
一人だと桂川超えて見に行くことなんか出来なかったよ。
ところでパンフレットってまだ売ってるかな?」
レジは閉まっていたがスタッフさんが快諾してくれて、私達は全員パンフレットを購入して帰った。
帰りのタクシーで真新しい真っ白なパンフレットを各々が愛おしそうに抱いていた。
本当に語るべき相手
私は、この作品を観て、亡くなった祖父母の事を思い出した。
小学生の頃に聞いた戦争の話は、記憶でしか思い出す事が出来ない。
小4の頃の道徳なのか、小6の頃に修学旅行で広島を訪れる前学習としてなのか、は忘れたけれど、「宿題」という名目で祖父母に戦争話をヒアリングした事がある。
祖父母は、出会う前でお互いの存在を知らない10代だった。
女学生時代を送っていた祖母からは、鳥取大火の話を聞いた。
鍛治屋の末っ子であった祖父は、東京で武器を作っていた。何を作っていたかは、もう覚えていない。台詞が虫食いにあっているみたい。戦地に行かずに武器を作っていた話だけが妙に残っている。劇中だと北條パパにあたるのかも。
戦争が終わり、兄弟が亡くなったり散り散りになった一族の家長に、若き祖父はなってしまった。最後の鍛治屋として。それはまた別のお話である。
生きていたら、祖父は90歳だった。"すずさん"と同世代だったろう。
そう思うと、戦争を知る人間は確実に少なくなっている。
あの時代に容易にタイムスリップさせる語り部は少なくなり、こうした映画をきっかけにタイムスリップするしかない。
私は次に帰省したら、この映画を肴に、祖父母の事を家族で語り合うんだと思う。
地元の鳥取県では、まだ上映されていないけれど、機会を作って見て欲しいと。
私は、この作品を観た自分の家族がなんて思うのかが知りたい。離れて暮らす家族がどう思うか。
親元を離れて10年近く経とうとしている今だからこそ、話せる話がたくさんあるはずだから。
『「この世界の片隅に」という作品は、浦野すずという少女が自分を取り戻していく物語です。』とパンフレットで片淵監督は語る。
自分を取り戻していくのは、"すずさん"だけでなく、この作品に触れた私自身もなんだなぁ、と思う。
奥底に閉まっていた箱の錠前に鍵を入れたような、そんな気がした。
おわりに
見終わった後の言動を振り返ると面白かったので晒しとく
劇場を後にした直後
今年映画見る度に最高しか言えない
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
相変わらず知性が無い
良質な中国地方の言葉聞いたから実家帰りたい
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
後にも記載しますが、劇中で話されていた広島弁・呉弁は、とても鳥取弁に似ていました。生きているおばあちゃんと喋りたい。
見たメンバー全員がパンフレットを買って帰り、2回目の約束をする映画は初めてだ…
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
今回女子4人で行ったわけですが、こんなの今まで無かったぞぃ。
各々で原作を読んでから2回目に行く事に。
深夜の立体駐車場のゲーム感
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
京都のイオンモール桂川でのレイトショー帰りだったのですが、誰もいない立体駐車場やショッピングモールは、ゲームのワンシーンのようでゾンビが出てきてもおかしく無い怖さしかない。
家に帰って真面目に書いた
やっと「この世界の片隅に」見た。何が良かったのかは、まだ漠然として言語化出来ていないが、ある種の体験をしたように思う。当時を知る祖父母は他界しているが、離れて暮らす家族には見て欲しいし語り合いたい。パンフレット購入して余韻に浸るし、原作ポチったし、2回目も劇場で見る。そんな作品。
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
今回ブログに書いた事で少しは言語化できたように思う。
作中で使われている広島弁や呉弁が、自分の地元である鳥取弁に近しい部分があり、ほっこりして見れた。そして鳥取でも見れるようになって良かったね〜😇 10年前だったら映画のために小旅行して他県まで観に行ってたな…
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
唯一鳥取県だけ見れなかったようだけど、年明けから上映開始するとの事。
10年前の自分だったら、理由つけて兵庫か岡山に行って観てそう。
映画を観終わって「かく」という行為が異様にしたくなった。鉛筆をナイフで削って画用紙に描くという一時期毎日のようにしていた行為を。「かく」が愛おしい。例えそれが出来なくなっても。
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
先にもかいたけど「かく」が愛おしい。
帰って真っ先に鉛筆を削ってスケッチブックを開きました。
鉛筆が紙に触れるのがこんなに素敵な事だっただろうか。
劇場で観る前にこの文章を流し読みしてしまったけど、観終わって改めて読むと響く。原作読んで2回目コースだ。 /// https://t.co/StVMeAlGn6
— KURA (@KurAruK) 2016年12月6日
この文章は見終わった後だからこそ響く。2回目はどう感じるんだろう。
またこの作品に会えるのが、"すずさん"に会えるのが楽しみ。